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詩人秋山淸とアナキズム
金昌德
秋山淸については詩人としてはアナキズム文?評論家としてよく知られている。例えば 韓?で初めに書かれたアナキズム文?論は 1975年、洪儀の修士論文 「アナキズム文?論」があるが、その?容の中には 大?正道と供に秋山?もアナキズム文?理論家として引用されている。 引き?いで 2012年、朴眞姬(パク?ジンヒ)という女性が書いた『柳致環(ユ チファン)文?とアナキズム』でも、秋山?はアナキズム文?理論家として紹介されている。 筆者の場合も アナキスト詩人 植村諦を少し勉?する過程で相?の部分、秋山?のアナキズム文?論を?考したくらいである。
率直に申し上げると 秋山?の詩は、今まで?んだ記憶のない無知の?態で、今度の機?を通じて初めで?むようになったくらいである。?って詩人秋山に?しては門外漢の私が?門家達の前で秋山について?れること、自?が言語道?と言えるだろう。失?と知ってながら、私は以前植村諦について少し接したことを思い出して、秋山?の詩について少し?れて見たいと思う。
秋山?と植村諦、この二人のアナ?キスト詩人の中で、植村諦は 1903年生まれで、秋山?が1904年生まれ、この二人は同時代を生きてきた詩人と言えるだろう。二人は日帝の暴力的な?迫を供に??し、そして勝ち?けた詩人と言えるだろう。その上、アナキズムという思想を生涯の信條として活動し、また、これを土台にして詩も書き、詩集『?道』と『詩文?』などで同人として?加した共通点を持っている。
また、二人の詩人が日本のアナキズム運史に重要な点は、二人は若い時代アナキズムを受け入れた以?、自分の生が終わる瞬間まで決してアナキズムをあきらめないで生涯一貫したという点であろう。?前に「?換の時代」と呼ばれるほど ?井繁治をはじめ幾多のアナキズム系列の詩人達がマルキシズム、または資本主義文?に離?したし、甚だしくは?後、一生の同志と固く信じていた岡本潤さえもマルキシズムに離?する過程をこの二人の詩人は?をのんで見守りながらも最後の瞬間まで?旗を守った、意志の?い男であった。
二人の珍しい?係は秋山が『近代の漂泊』で植村諦に?するに唯一の評論を?ったし、植村が1959年、?出血で世を去った時には「ある孤?」という三編の詩を?して植村の死を悲痛がった。その上、植村が?した詩と小論文などを集めて『鎭魂歌』というタイトルの本で編集出刊したぐらい格別の同志で友達でもあった。
しかし、このような特別な共通点があるにもかかわらず、二人の詩人は詩の性格においては確然に差を表していた。秋山の場合は 人間の自由を抑?する すべての制度や思想、因習、甚だしくは アナキズムさえも 否定し、 "?い自我"を主張し、 "自分の詩"を書こうとしたことに比べて、植村の場合 秋山が極めて警戒していた宣?、煽動、ひいてはアナキズムのためのアナ?キスト詩人だったと言えるだろう。不?な?力に?するすべての鬱憤と怒りを自分の?面で?んで表現しようとした秋山に比べて、アナキズムを先頭に共同?社?を重視し、民衆を啓蒙、宣?、先導して、??に導こうとした植村の詩とは確?に?分されるあろう。また、こんな理由によって植村の詩には?然にヒロイズムも?在したわけである。植村の詩には民衆、群衆という用語が頻繁に登場し、彼らに?する信?と希望に溢れるし、逆に民衆?する絶望感、甚だしくは?蔑の目つきまでがそのまま露出されている。これに反して秋山の詩には民衆、群衆という用語はほとんど見えないで、ただ一人で悲しみ、怒り、自責している詩人の姿が見えるだけである。
このように、幾多の共通点にもかかわらず、詩においては大きい差が現われる原因としてはさまざまな要因が思われるだろう。その幾多の要因の中で一つには、まさに あの二人が生涯一貫したアナキズムに?する相違から?る結果ではないか? と 控え目に推測して見る。
それでは、ここでちょっとアナキズムに?して?れてみる。アナキズムは極度に?落した資本主義に?する?い反?から誕生し、すべての政治的な組織、?力なんかを否定する共通点を持っているが、その?行の段階では地域と時期、または、人物等によって少しずつその差が認められるだろう。?田?の面前で?れるのはちょっと恥ずかしいと思っておるが、日本の場合も同じだろう。周知の通り、日本のアナキズム運動は、おおよそ次三つの時期に?分することができるだろう。
はじめは明治時代のアナキズムで 1906年、幸德秋水によって受け入れた以?、?動者や農民と供に?家?力に正面から抵抗しようとした時期で、結局は11人が刑場の露に消えた時期であった。しかし、この時期はアナキズムがすべてのプロレタリア階級を代表していた点から、アナキズムよりは社?主義という表現がもっと適切だろう。
?いて、1911年の大逆事件から偶然に生き?った大杉?よって始まった大正時代のアナキズムで、この時期の特?は充分に予想される?家?力からの??を避けるためにも?家?力との正面からの抵抗と?いを避ける代わり "自我の?見"、"自?"を通して "社?の?革"を考えた時期だと思うことができるだろう。この事?は、個人中心の?ち、個人アナキズムの時期とも言えるだろう。この時期は人間の自由を抑?するすべての制度や因習、思想、ひいてはアナキズムまでも否定しようとした時期で、秋山はこの時に詩作を始めたし、?然にこのような時代?況から多くの影響を受けたのではないかと思う。
秋山の詩を?みながら、最初に感られる点は、やっぱり "弱い抵抗"と言えるだろう。官?によって 7年間獄中生活を?要された植村の詩で見られる直情的で激情的な怒りと抵抗の精神は秋山の詩からは直接?めない。また、植民地朝鮮の解放のために日本帝?と?い、遂には 1944年 1月 獄中で命を奪われた韓?のアナ?キスト詩人李陸士の詩から?まれる 凄まじい抵抗精神は、秋山の??に?在したまま、めったに表に現われてこない。
もちろん、この点について 新藤謙は "生き方の巧妙さ"から現れる"表現の弱さ"で"生硬な口吻や怒號"を越えるだけの資質に?まれ、また、その努力と?究を重ねて?たと言っている。しかし、秋山の詩が優れた文?性に比べて??と抵抗精神が弱く感じられることは決して消せない事?じゃないか思う。このように秋山の詩が"弱い抵抗"に感じられるのは、あの大正時代アナキズムの特?がそのまま秋山の詩にも影響を及ぼしたのではないかと推測して見る。
また、最後に昭和時代のアナキズム。この時期の特?は大杉?夫婦の虐殺以後、1926年ボルセビキとの本格的な分化を通して初めてマルキシズムとは全然性格を別にするアナキズム活動、その文?とは果たして何なのかに?する?摯な?みが始まった時期とも言えるだろう。その上、軍?主義への猛進の中、漸?する?家?力と そして相?的に劣勢に置かれていたマルキシズムに?抗するためにもアナキズムは露骨的な宣?と煽動、甚だしくはテロにまで飛び?み、集?的な行動を通じて積極的に?抗しようとした時期だと言えるだろう。?然にこの時期のアナキズムは大正時代の "個"、"自我"という領域から?して民衆と供にしようと努力したし、民衆に先立って??と抵抗に導くことを自分たちの時代的使命だと思った時期で、"社?的アナキズム"の時代だと言えるだろう。?って、?然にこのヒロイズムは必須になっただろう。
植村諦は、まさにこの時期の代表的な詩人であった。
植村諦は 1929年から 1930年まで1年間、植民地朝鮮での民衆??を通してアナキズムによる社?革命を夢見るようになったし、これが彼の詩には "??"と "抵抗"精神に現われるようになったのである。 また、植村諦がアナ?キスト詩人として活躍した 1930年から 1935年の間、日本社?の雰??は愛?と言うのは名目だけで、民衆を侵略??に動員しようとする?家?力が猛威をふるった時期でもあった。しかし民衆は?家?力に洗?されながらも、不?な?家?力に?って、はなはだしくはその侵略??を美化した時期でもあった。その上、自分たちと供に?動者、農民の解放を宣?するものの、裏では新しい?力を企てるマルキシズムが流行った時期でもあった。 こんな時代?況こそアナ?キストとしては堪えられない現?であったし、植村諦の "抵抗"と "??"はこのような時代雰??から展開されたと言えるだろう。
このような時代的背景によって植村諦の詩は秋山の詩とは全然性格が違うようになったし、今、私たちに?まれるようになったと思う。
秋山の?向と抵抗の意味
余談ではあるが、この?合に?加する前に、韓?の鄭昌石?授の書いた『植民地的な?向』と言う本を?んだことがある。日本で言う?向と言う用語は殖民統治を??した韓?では "親日派"という用語に取り替えられている。このように韓?で?向に?して書籍が今も粘り?く?まれ、また社?的にも大きなイシュ?になることは、この問題が今も解決されていないまま、現在進行形として?っているということを意味する。特に彼ら?向者、すなわち親日派が解放以後にも文?界を始め、韓?社?の要職、あちこちで、まだ一言の反省さえないまま 自分たちの?得?を維持している?情から、こんな?向問題は、いつ終わるかも知れない韓?人の課題だと言えるだろう。
これら?向者、すなわち親日派は?時の抑?的な雰??の中で?向をしなければ生き?ることができなかったとか、何よりも、自分たちの力を育てて、漸進的に?立を達成しなければならないという考えで?向したという言葉で自分たちを?弁しているが、一方では命をかけて?立運動に飛?んだ人?がかなり多く存在したという事?から、彼らの言い?はとても貧しく聞こえるのである。
とにかく、?時名前が知られた大部分の作家が?力に屈服して?向してしまった?態で、現在韓?社?で抵抗作家と呼ばれるようになった作家は極めて限定的だと言える。 こんな?況で小さな抵抗の跡が?見されただけでも、容易く抵抗作家と呼ばれるようになったと思う。
一方、このような?家?力の?力と脅迫に?して日本の?村浩や小林多喜二、そして韓?では尹東柱、李陸士などは死をもって最後まで抵抗したケ?スがあり、または大多?の作家の場合から見られるように?力に屈服して自分と民衆を裏切って?力側に?身したことも思われるだろう。 しかし、極めて例外ではあるが、極烈な??を避けて?外に亡命するか、初めから身分を?してしまうこともあるだろう。
韓?の場合には日本にもよく知られている金史良は日本帝?の監視を避けて中?に身を避けたし、詩人の兪鎭五は智異山に?れて餓死直前に祖?の解放を迎えて劇的に生き?った場合もある。 それでは秋山?の場合、抵抗作家と呼ばれる要因に思われるのは何があるか。
率直に言わば前にもしばしば?れた通り秋山?の詩からは"弱い抵抗"が?まれる。 また、?局の??を受けるほどの極烈なアナキズム活動を展開した事?も確認されない。このように思えば?局の立場からは敢えて?向を?要するほどの作家や活動家として認識していなかったかにおもわれるのはおかしいか。
これと共に有吉隆明が秋山?を金子光晴と供に唯一の抵抗詩人と言ったのは韓?の例からも分れるように?時抵抗詩人と名付けるに値する作家があまり見つからない?態で消極の抵抗も高く評?した結果ではないか?
?照書籍
『秋山?詩集』 現代思潮社
『白い花』 コスモス社,
『秋山?の詩と思想』、新藤謙著、土曜美術史
『アナキスト詩集』 海燕書房
韓?の書籍
『植民地的抵抗』、鄭昌石, 2015.10.
『柳致環 文?と アナキズム』、朴??, 2012.5 |